持続可能な未来に向けた航海
石油タンカーが難破したり、スエズ運河で大型貨物船が座礁したり、2万8,000羽のアヒルのおもちゃが海に放たれ、その後30年にわたり世界各地に流れ着いて話題を呼ぶなどの特例を除き、世界の海運業界がニュースで取り上げられることはほとんどありません[1]。
海運業界が環境に及ぼす影響も、比較的小さいようです。海運は世界の輸送量の約80%を占めているにもかかわらず、輸送時の排出量に占める割合は10%、温室効果ガスの総排出量に占める割合は3%に過ぎません[2]。
この3%というのは、取るに足りないように聞こえるかもしれません。しかし、近年、世界的な海運需要の高まりにより、海運業界の温室効果ガスの排出量が、他のセクターよりも加速的に増加しています。専門家の中には、今のうちに対策を講じなければ、数十年以内に海運業界が世界の温室効果ガス排出量の10~13%を占めるようになる可能性があると唱える人もいます[3]。
海運業界は、温室効果ガスや、硫黄酸化物(SOx)、窒素酸化物(NOx)、粒子状物質(PM)などの汚染物質、さらに燃料消費量を削減し、持続可能性を向上する必要に迫られています。
その規制の役割を担うのが、世界の海運を統括する国連の国際海事機関(IMO)です。IMOは、2030年までに40%の効率性向上を達成する目標を掲げ[4]、2050年までに国際海運による総排出量を2008年比で50%以上削減することを呼びかけています。
これは野心的な目標ですが、海運セクターの規模の大きさを考えると、パリ協定のネットゼロ目標を達成する上で不可欠と言えるでしょう。
ばら積み貨物船、タンカー、コンテナ船の3つのセグメントは、海運業界の二酸化炭素排出量の約65%、輸送量の約90%を占めています。幸い、海上輸送は、少なくとも温室効果ガスの排出量の点で、他の貨物輸送手段に比べ環境的に最もクリーンです。1トンキロあたりの二酸化炭素排出量は20~25gで、他の貨物輸送に比べるとわずか数分の一です。これに対し、航空輸送の1トンキロあたりの二酸化炭素排出量は最大600g、陸上輸送は通常50~150gとなっています。
しかし、最近の研究[5]では、海運セクターの脱炭素化が進んでいるにもかかわらず、世界貿易の継続的な拡大により、海運セクターによる温室効果ガスの排出量が2050年まで急増し続ける可能性が示唆されています。
2018年には、約3億トンの化石燃料が消費されました。世界貿易の需要の拡大に伴い、輸送量は今世紀半ばまで毎年平均約1.3%増加していくと予測されています。国際再生可能エネルギー機関[6]は、世界の海運を国に例えると、二酸化炭素排出量において6位か7位を占める国になると述べています。
変化の波
海運業をより持続可能にするための取り組みも進んでいます。船舶用エンジンは、技術の向上によりエネルギー効率が向上し、運航方式の変更により排出量の削減が達成されています。例えば、燃料消費を抑えるために意図的に速度を落とす「減速航行」により、2008年〜2012年の1トンマイルあたりの排出原単位は13%削減されました。
しかし、海運業界の世界的な規模を考えると、持続可能性を効果的に向上するためには、さらなる規制が不可欠でしょう。IMOは、船舶からの汚染防止を目的とする「船舶による汚染の防止のための国際条約(MARPOL)[7]」という重要な条約を策定しました。
最新の附属書VIは、船舶による大気汚染の削減に焦点を置いています。2021年、燃料油の硫黄含有量の上限が0.5%に引き下げとなりました。船会社にとって、硫黄排出量を0.5%にするための現実的な選択肢としては3つ挙げられます。それは、低硫黄燃料油(VLSFO)、超低硫黄燃料油(ULSFO)、海洋ガス油(MGO)のいずれかへの切り替え、液体天然ガス(LNG)の使用、より安価な標準燃料から汚染物質を取り除く排ガス浄化装置(スクラバー)の設置です[8]。
コスト効果は非常に明白です。「スクラバー」の設置にかかるコストは150〜500万米ドルで、よりクリーンな燃料のコストは1トンあたり最大400ドルです[9]。スクラバーは1年で採算が取れます。世界最大の国際海運団体BIMCOが報告する数字も、それを反映しています。2020年1月からわずか14ヶ月間で、スクラバーを装備している船舶の数は、2,011隻から3,935隻へとほぼ倍増しました[10]。
しかし、スクラバー自体も問題となることが指摘されています。スクラバーは、排気筒の中に設置し、海水を使用してエンジンの排気ガスに含まれる二酸化硫黄の汚染物質を洗い流す装置です。
その「洗浄水」が、環境に悪影響を及ぼす可能性があるのです。海水の最大10万倍もの酸性を示すこの酸性水は、タラやニシンなどの魚の主要な餌である動物プランクトンを損ない、食物連鎖全体に影響を与えることが研究により明らかになっています。
多くの船舶はオープンループ方式を採用しており、廃棄物を直接船外に放水しています。タンクに溜めて専用の港湾施設で処理するのはコストが嵩むからです。
国際クリーン輸送協議会[11]の報告書によると、年間約10ギガトンのスクラバー洗浄水が海洋に排出されており、これは船舶の貨物の総輸送量とほぼ同じ重量です。重金属を含むスクラバー洗浄水の毒素は、海洋の食物連鎖に蓄積され、環境により広範で長期的な影響を与える可能性があります。
ヨーロッパの取り組み
世界の海運輸送のグリーン化を目指す組織は、IMOだけではありません。欧州連合(EU)は、持続可能な海運を推進する原動力としての役割を果たしており、排出量対策の強化に熱心に取り組んでいます[12]。2015年には、EUの港に寄港する船舶(総重量5,000トン以上)の二酸化炭素排出量のデータ収集を目的とする新しい規制(EU規則2015/757)を採択しています。「EU MRV」と呼ばれるこの規制は、IMOデータ収集システムと並行して実施されるため、船会社は2つのデータ報告制度を遵守することになります。
2020年EU議会は、EU MRVの改定と、対象となる船舶をEU域内排出権取引制度(ETS)に追加する案を賛成多数で可決しました[13]。この動きは、2030年までに海運業の二酸化炭素排出量の40%削減を目指すものです。また、欧州議会議員(MEP)は、代替燃料やグリーンポートなどの革新的な技術やインフラへの投資を支援する「海洋基金」の創設を提案しました。同基金は、収益の20%を地球温暖化の影響を受ける海洋生態系の保護や回復、そして効率的な管理に割り当てるものとなっています。しかし、EU加盟国間の合意が得られていないことから、この法案は現在見送られています[14]。
IMOやEUの努力にもかかわらず、持続可能な海運を促進するための世界的な規制の枠組みは整備されていません。気候変動や環境の持続可能性に関する一般市民の声が高まったことで、海運業界、投資家、銀行が自ら対策に乗り出すようになりました。
例えば、海運業を営む金融機関は、船隊の温室効果ガス排出量を測定するための基準である「ポセイドン原則[15]」を採用し、その基準を満たさなければ、融資を受けられない仕組みになっています。Amazon(アマゾン)やUnilever(ユニリーバ)といった大口顧客も、持続可能性へのコミットメントの一環として、サプライチェーンのゼロカーボン目標を設定しています。
海運技術の進歩
二酸化炭素排出量を削減するための研究の多くは代替燃料、特にバイオ燃料が中心です。今のところ、こうした研究の進捗状況にはばらつきがあります。IMO 2020年データ収集システム(DCS)によると、船舶用燃料の99.91%が従来型の炭素燃料であることが明らかになりました[16]。しかし、エンジン、燃料タンク、ポンプ、供給システムに大きな変更を加える必要がないバイオ燃料は、従来の海洋燃料に代わる中長期的なオプションとして非常に大きな可能性を秘めています。
例えば、バイオメタノールやバイオLNG(液化天然ガス)は、従来使用されているメタノールやLNGと同じ仕様です。また、水素化分解油(HVO)や脂肪酸メチルエステル(FAME)などのディーゼルライク燃料と従来の燃料を組み合わせた合成燃料の検証もすでに進んでいます。例えば、ヨーロッパのほとんどのトラックメーカーがHVO燃料のエンジンを搭載しており、商業運送業者もHVO燃料を使い始めています。
持続可能な海運の大きな推進力となっているのは、やはり技術の進歩でしょう。
カーボンフリーの駆動力を求めて、風力発電や帆に回帰する企業もあるほどです。1980年代の原油価格の高騰に伴い、燃費を抑える目的で数隻の船に硬質帆が装備された結果、10%〜30%のコスト節約となりました[17]。海洋工学のコンサルタント会社であるBAR Technologies(BARテクノロジーズ)は、スカンジナビアの海洋技術企業であるYara Marine(ヤラ・マリン)と提携し、大量貨物船のデッキに最長45mの堅い翼を取り付けるWindWingsシステム[18]を開発しました。ルート最適化と組み合わせた場合、WindWingsは燃料消費量を最大30%削減できます。
また、風力発電と太陽光発電を組み合わせた実験を行っている企業もあります。例えば、日本のEco Marine Power(エコマリンパワー)[19]が開発したアクエリアスMRE(Marine Renewable Energy)は、コンピューターで硬い帆を制御する外洋航行、港では太陽光エネルギーによる操縦を可能にしました。
また、無人車のように、船に搭載されたコンピューターシステムが常時航路を監視・修正する「自律走行技術」も、排出量の削減に役立つ可能性があります。海洋技術プロバイダーのWärtsilä(バルチラ)[20]の論文によると、自律化ソリューションは、船舶の航路と速度を最適化し、長期の航海で10%以上の燃料を節約できると推定しています。
さらに、2時間の航海では、ドッキング時間をわずか60秒短縮するだけで、1分あたり2〜3%の燃料消費量の削減が可能です。
海運業界は、こうした革新的な技術の導入に意欲的です。例えば、大手海運会社のMaersk(マースク)[21]は、2040年までにネットゼロ目標を達成するため、カーボンニュートラルな燃料のみで航行する外航船を13隻発注しています。カーボンニュートラルな船舶を運航することで、二酸化炭素排出量を100万トン削減し、現在の3,300万トンから3%減を達成できると試算しています。一方、WindWingsの検証に最初に乗り出した企業のひとつが、年間600〜700隻の船舶をチャーターしている大手農業食品グループCargill(カーギル)[22]です。2枚の帆を装着したドライバルク船で穀物を輸送し、商業化の可能性を検証するパイロットプロジェクトに参加しています。
未来を感じさせる「ゼロエミッション」の海運
Abdul Latif Jameel(アブドゥル・ラティフ・ジャミール)の長年のパートナーである海運業大手の日本郵船は、「デジタル化とグリーン化で2022年を先取りする」戦略プランの一環として、大型外航船の電力供給に関する新しいアプローチを開発しています。
日本郵船は、海上技術開発部門であるMTIと、フィンランドのエンジニアリング・コンサルティング会社Elomatic(エロマティック)と共同で、最新の技術や燃料を駆使したコンセプト船をデザインしました[23]。200m級の「NYKスーパーエコシップ2050」は、電気推進用の燃料電池の導入、船体の改造による水面摩擦の低減、船体の軽量化などをはじめ、効率性に優れた推進装置を採用することで、運航に必要な電力を70%削減しています。
化石燃料の代わりに、太陽光エネルギーと、再生可能エネルギー源で生成した水素を活用することで、二酸化炭素排出量を100%削減する「ゼロエミッション」船となっています。
この削減は、さまざまな革新技術を積み重ねることで達成されています。例えば、水素燃料電池で18%の削減効果を達成し、船体の軽量化によりエネルギー消費量を34%削減しています。燃料システムは廃熱回収技術を活用して発電効率を69%向上。さらに、1,900m3の水素タンクは給油なしで最大21日間の航海が可能です。そして、太陽光発電によりエネルギー総需要量をさらに15%削減しています。
革新的な設計
燃費を向上させる革新的な船内技術は、新造船のエネルギー需要量を40%~50%削減し[24]、代替燃料を使用する際の追加コストを削減して、代替燃料への切り替えを促進できる可能性があります。
既存の技術に関しては、電力供給システムとフリート運航を全体的に最適化するベストプラクティスとさまざまな効率化技術を普及させることで、大きな効果が期待できます。
例えば、空気潤滑技術や風力補助推進技術を既存船に導入したり、燃料消費を抑える航海最適化ソフトウェアを大規模に導入することで、大きな効果を得ることが可能です。
大幅な効率化に役立つと期待されている最新技術もいくつかあります。例えば、研究者は、サメの皮膚の性質を再現して、抵抗の低減や推力の向上のための生体材料の表面処理を施したり、摩擦を低減するための空気取り込みのパッシブデザインなども検討しています。
個人的には、海上貿易で発生する炭素やその他の汚染物質の排出量を削減するために必要な要素は揃っていると楽観的に見ています。
代替燃料の研究開発に加え、人工知能や自律走行技術の普及が進み、世界の海運がよりクリーンで高速化・効率化されることで、より持続可能な地球の未来に向けた航海は今、重要な転機を迎えようとしているのです。
[1] https://www.vsnb.com/floating-rubber-ducks-ocean-teach-us-good-lessons
[2] https://cms.zerocarbonshipping.com/media/uploads/documents/MMMCZCS_Sailing_towards_zero_ver_1.0.pdf ページ 3 & 5
[3] https://ec.europa.eu/research-and-innovation/en/horizon-magazine/emissions-free-sailing-full-steam-ahead-ocean-going-shipping
[4] https://www.worldshipping.org/sustainable-shipping
[5] https://cms.zerocarbonshipping.com/media/uploads/documents/MMMCZCS_Sailing_towards_zero_ver_1.0.pdf ページ 5
[6] https://www.forbes.com/sites/kensilverstein/2023/02/27/decarbonizing-the-shipping-sector-is-a-long-trip-but-within-reach/
[7] https://www.imo.org/en/KnowledgeCentre/ConferencesMeetings/pages/Marpol.aspx
[8] https://think.ing.com/uploads/pdf-replacements/IMO_2020_sulphur_cap_reshapes_global_shipping.pdf
[9] https://www.theguardian.com/environment/2022/jul/12/shippings-dirty-secret-how-scrubbers-clean-the-air-while-contaminating-the-sea
[10] https://www.offshore-energy.biz/bimco-scrubber-fitted-ships-nearly-double-in-15-months/
[12] https://www.mondaq.com/marine-shipping/1038458/towards-a-more-sustainable-shipping-industry–where-are-we-now
[13] https://www.europarl.europa.eu/news/en/press-room/20200910IPR86825/parliament-says-shipping-industry-must-contribute-to-climate-neutrality#:~:text=MEPs%20call%20for%20an%20%E2%80%9COcean,alternative%20fuel%20and%20green%20ports.
[14] https://www.lexology.com/library/detail.aspx?g=272df2e9-7442-450f-a902-e8ce304ed6d0
[15] https://www.dnv.com/maritime/advisory/poseidon-principles.html
[16] https://www.emsa.europa.eu/newsroom/latest-news/item/4834-update-on-potential-of-biofuels-for-shipping.html#:~:text=While%20the%20current%20use%20of,the%20total%20maritime%20fuel%20consumption
[17] https://www.ecomarinepower.com/en/rigid-sails-and-solar-power-for-ships
[18] https://splash247.com/yara-marine-to-market-bar-tech-wind-power-for-ships/
[19] https://www.ecomarinepower.com/en/aquarius-eco-ship
[20] https://www.wartsila.com/insights/whitepaper/the-future-of-smart-autonomy-is-here
[21] https://www.forbes.com/sites/kensilverstein/2023/02/27/decarbonizing-the-shipping-sector-is-a-long-trip-but-within-reach/
[22] https://www.reuters.com/business/environment/back-future-cargo-giant-cargill-turns-sails-cut-carbon-2022-07-01/
[23] https://www.nyk.com/english/esg/envi/ecoship/
[24] https://cms.zerocarbonshipping.com/media/uploads/documents/Five-Critical-Levers-that-make-a-Difference.pdf 4 ページ